屋根裏部屋でホコリをかぶっていた本を引っ張り出して来ました。ちょっと気になった部分だけを取り出して「個人の感想」を書いてます。
ネット記事です。

https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_litera_10106/  


 LITERA - リテラ。月刊誌『噂の眞相』の元スタッフが中心となって立ち上げたネットメディア。サイゾーのシステムに間借りしているが、資本関係はなく編集方針の干渉も受けていない[。

↑ という一つのメディアなのですが、皇室関係の記事でいくと「うわしん」よりお行儀がいいかな?

それがために、いかにも真相に迫っているかのように書いているだけで、実はこの記事も、うわべを1枚めくっただけの〝真相〟にすぎないように思う。

>だが、雅子皇后の皇室での生活はそんな「美談」で片付けられるようなものではまったくない。

雅子さまって「美談」を書かれたことありましたっけ?
たいていは「事実」であって、「美談」ではないと思うけどな。

>雅子皇后が皇室入りしてから取材を続けてきたベテラン皇室ジャーナリストの証言を交えながら、振り返っておきたい。

ベテラン皇室ジャーナリストって誰だか知らないけれども、とにかく皇室関係でまともなことを言ったジャーナリストって皆無だと思うけれどね。
皇室に限っては「ジャーナリスト」と名乗るヤツが一番胡散臭いように思うんだよね。



さて、ちょっと長いけれども、突っ込みを入れていきましょう。


----------- (本文)


9日夜に皇居前広場でおこなわれた「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」、10日午後の天皇の即位を披露するパレード「祝賀御列の儀」と、新天皇即位を祝うイベントが相次いで行われ、メディアは例のごとくお祝いムード一色になっている。
 なかでも、フォーカスされていたのが雅子皇后だ。マスコミは雅子皇后の様子を「嵐の歌を聴いて涙ぐんだ」「パレードの歓声に涙をぬぐう姿も」と大きく報道。改めて「ご成婚」に至るエピソードを紹介し、皇后になるまでの軌跡を振り返った。パレードが行われた10日夜には、雅子皇后が皇室に入ってからの25年を描いたドラマも放送された。
 しかし、そこで語られていたのは、いずれも同じような話だ。当初は結婚を固辞されていた雅子さま皇后を動かした皇太子殿下のお言葉、慣れない皇室の生活で体調を崩されたが、愛子さまをご出産、皇太子殿下の支えでご病気を克服された──。
 だが、雅子皇后の皇室での生活はそんな「美談」で片付けられるようなものではまったくない。雅子皇后はある意味「人身御供」として皇室に供され、結婚後も「産む機械」として扱われ、人間の尊厳を踏みにじるようなプレッシャーにさらされてきた。そして、一時は完全に心を病み、「自殺未遂」、さらに離婚の危機まで報じられていたのだ。
 マスコミは皇后になったことで、すべてをなかったことにしようとしているが、同じような悲劇を繰り返さないためにも、この機会に、雅子皇后が皇室制度の中でどんな目にあったのか、雅子皇后が皇室入りしてから取材を続けてきたベテラン皇室ジャーナリストの証言を交えながら、振り返っておきたい。
 
 まず強調しておかなければならないのは、雅子皇后が結婚を決意したこと自体、マスコミが報じているような「皇太子殿下の熱意に心を動かされた」「7年越しの初恋が実った」というような牧歌的な話ではないということだ。
 2人が出会ったのは、1986年東宮御所で開かれたスペイン王女歓迎パーティでのこと。翌年の外務省入省が決まったばかりの雅子皇后も参加しており、徳仁天皇が見初めたのだった。
「すでに宮内庁は水面下で当時、妃探しに着手しており、お妃候補と出会う様々な機会をつくっていました。その一人が雅子さまだったのです。外務省が宮内庁に推薦したといわれています」(皇室ジャーナリスト)
 だが、雅子皇后は当初、妃になることを固く否定していた。外務省から英オックスフォード大に研修留学していた1989年には、日本から追いかけてきたマスコミを前に即席の会見を開き、「わたくしはお妃問題には関係していません。ずっと外務省職員として生きていく」と語った。
 しかし、徳仁天皇(当時は浩宮徳仁親王)は雅子皇后にこだわった。そこで説得に動いたのが、元外務事務次官の柳谷謙介氏だった。柳谷氏は雅子皇后の父親である元外務事務次官・小和田恆氏が「最も尊敬する先輩」という人物だが、この行動の背景には、「雅子さんが皇太子妃になれば、外務省が霞が関でさらに影響力を強められる」という外務省全体の意思があったと言われる。
 そして、父親も一目置く大物外務省OBの依頼を雅子皇后は断りきれず、1992年4月に柳谷邸で、10月には宮内庁新浜鴨場で、柳谷氏同席の上、徳仁天皇との面会に応じる。もっとも徳仁天皇との結婚は固辞し、雅子皇后は10月20日に正式に断りの返事をしていた。
 
 ところが、雅子皇后は11月28日にも東宮御所に呼び出され、徳仁天皇と3度目の面会、そして、12月19日には一転して結婚を承諾した。
 実はこの間、雅子皇后には相当なプレッシャーがかけられていたといわれている。柳谷氏をはじめ外務省は総出で「皇室外交を担って日本の外交に貢献してほしい」というロジックで説得。中曽根康弘や渡辺美智雄といった政治家が乗り出したことも取りざたされた。
 さらに有力視されているのが、1992年10月の天皇訪中を巡る“取り引き”説だ。この天皇の初めての中国訪問には、与党・自民党内でも大きく賛否が分かれていた。そのなかで、天皇訪中を積極的に進めていたのが外務省、そして宮内庁との折衝にあたっていたのが小和田事務次官だった。恆氏と外務省がこの天皇訪中を実現するために、いやがる雅子氏を説得した、という見方は今でも根強い。
 いずれにしても、雅子皇后が徳仁天皇と結婚したのは、政府周辺の圧力の結果だったと考えて間違いないだろう。しかも、結婚後、雅子皇后への圧力はさらに強くなった。今度の圧力はもちろん「お世継ぎを産め」というものだった。
 前述したように結婚を雅子皇后に応諾させる際、政府サイドは「皇室外交を積極的にやっていただく」と約束したとされるが、結婚後の宮内庁の対応はまったく逆だった。当時の宮内庁長官の鎌倉節氏と東宮大夫だった古川清氏が雅子皇后に“子づくり”に専念させるため、外遊を禁じ、東宮の中に閉じ込めたのだ。
 
 実際、1994年11月と1995年1月の中東7カ国歴訪を最後に、愛子内親王が生まれた翌年の2002年まで雅子皇后は外遊に行っていない(1999年の海外訪問は王族の冠婚葬祭であり、皇室間の儀礼的訪問にすぎなかった)。
「警察官僚出身の鎌倉氏は世継ぎの出産を国体の護持と言い放つゴリゴリの右派で、東宮大夫だった古川氏は“東宮のガン”とまで言われた守旧派のドン。鎌倉・古川コンビを毛嫌いしていた雅子さまは、結婚後、籠の鳥生活のプレッシャーからストレス障害に陥り、持病のアトピー性皮膚炎まで悪化してしまった。なかでも結婚から3年後の1996年は最悪で、皇太子との関係もギクシャクし、雅子さまは東大の教授を東宮御所に呼んでラテン語や政治学を習ったり、愛犬を買い始めたりと、ストレス発散に必死だった。雅子さまが心を閉ざして貝になり、複数の外国メディアが『悲しみの皇太子妃』『姿を消したプリンセス』などと報じたのもちょうどこのころです」(前出・皇室ジャーナリスト)
 さらに、宮内庁は、雅子妃の外遊を制限するだけではなく、不妊治療を強要していたのだ。「週刊文春」「文藝春秋」などで雅子皇后の立場に立った詳細な内幕ルポを発表してきたジャーナリスト・友納尚子氏の著書『ザ・プリンセス 雅子妃物語』(文藝春秋)によると、鎌倉宮内庁長官が直接、雅子妃に圧力をかけたという。通常、長官といえども皇太子夫妻から「お召し」がなければ勝手に会いに来ることなどできないのだが、1997年2月、鎌倉長官はその禁を破り、強引に乗り込んできた。そして部屋に入るなり、世継ぎの話を切り出したという。同書は元東宮職のこんなコメントを紹介している。
 
 「前置きもなく、いきなりお身体のことを話し始めたといいます。雅子妃殿下は羞恥心と驚きで複雑なお気持ちになったそうです。ひとりの女性が夫婦間のことなどを他人に軽々しく言えるはずがありません。雅子妃はしばらく黙ったままだったそうですが、あまりに理解がないためプライバシーについて言われたところ、結局、聞き入れてもらえないまま話は平行線に終わったと言われていました」
 しかし、宮内庁は東大病院で不妊治療の権威といわれていた堤治教授を宮内庁病院に招聘、不妊治療を強要して、1998年から検査や治療を始めた。
 ただし、雅子皇后は巷間言われていたような「体外受精」などの治療を受けたわけではない。検査は行われたが、治療については、堤教授には体外受精の技術はなく、あったとしても、排卵誘発剤、人工受精などのレベルだったと言われている。しかも、検査の結果、雅子皇后に問題はなかった。この検査についても前掲書『ザ・プリンセス』が宮内庁関係者のこんな証言を掲載している。
「これまでお子さまが生まれないのは雅子妃のお身体のせいだといわれてきたことから、この検査結果が出たことで『やっと周囲にわかってもらえる』と安心したお気持ちの方が強かったといわれています」
 そして、2001年、愛子内親王が誕生。これでようやく、雅子皇后へのプレッシャーは軽減されるだろうと思われた。しかし、実際はまったく逆だった。出産したのが女児だったことから、雅子皇后への風当たりはむしろ強まった。安倍首相を取り巻く右派が今も固執している「男子にあらずんば天皇にあらず」という男系男性天皇への固執が雅子皇后にさらなるプレッシャーを与えたのである。
 
 愛子内親王出産から1年後の2002年12月、雅子皇后はようやく徳仁天皇とともにニュージーランドを公式訪問することになった。約8年ぶりの外遊、出発前の会見で雅子皇后は、「今回、昨年子どもの愛子が誕生いたしまして、今年、関係者の尽力によりニュージーランドとオーストラリアという2カ国を訪問させていただけることになりましたことを本当にありがたいことだと思っております」とあいさつした上で、外遊への思いをこう打ち明けた。
「結婚以前の生活では私の育ってくる過程、そしてまた結婚前の生活でも、外国に参りますことが頻繁になっておりまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」
 これを聞くと、雅子皇后が皇室外交の希望を持ちながらそれをさせてもらえないことに強い無念の思いを抱いていたことがよくわかるが、しかし、雅子皇后への同情的な意見はほとんど起きなかった。逆に、政界や保守勢力、右派メディアから「何をわがままを言っているのか」「外国に行く暇があるなら、男子を産め」というバッシングの声が一斉に上がったのだ。
 いや、政界や右派メディアだけではない。鎌倉氏の後を引き継いだ湯浅利夫宮内庁長官が雅子皇后の定例会見で、この雅子皇后の発言に対して「あれだけ外国訪問をなさりたかったのかと正直驚いています」「外国訪問を積極的に進めることは、結果的に難しかった。いわゆるお世継ぎの問題がけっして小さな問題ではなく心配してきた」と、前例のない反論を口にしたのだ。
 
 さらに、翌年になると、この動きはもっと露骨になる。徳仁天皇と雅子皇后の結婚10周年に当たる2003年6月9日、徳仁天皇は第二子についての質問で「今しばらくは愛子の子育てを大切にしていきたいと思っています。二人目の子供について質問がありましたが、今後、一人目に至るまでにあったような内外からのプレッシャーを是非とも避けたく、この点につき、よろしくお願いしたいと思います」と回答したが、翌10日、湯浅長官はまったく逆に、プレッシャーをこう口にしたのだ。
「やはりもう一人は欲しい」「国民もそう考えているのではないか」
「愛子さまが生まれてから、雅子さまには愛子さまの教育に集中したい意向を持っていましたが、宮内庁からは不妊治療についても継続するよう圧力がかかっていたようです。また、メディアの雅子さまバッシングもさらにエスカレートしたのですが、そのネタ元の多くは、宮内庁、宮中守旧派でした。雅子さまはそういう状況に非常にショックを受け、心を病んでいったのです」(前出・皇室ジャーナリスト)
 実際、2003年12月に、雅子皇后は体調を崩し、宮内庁病院に入院する事態に。4日で退院したものの、翌年春までの公務休養が発表された。病名は「帯状疱疹」と発表されたが、「強迫神経症」「鬱病」という見方が濃厚で、実際、週刊誌ではそういった報道がなされた。
 ところが、宮内庁はその精神が不安定な雅子皇后に追い討ちをかける。湯浅長官が雅子皇后の退院直後の記者会見で、秋篠宮の第三子の可能性について聞かれ、「秋篠宮さまお考えもあると思うが、皇室の繁栄を考えた場合、3人目を強く希望したい」と言ったのだ。
 
 「皇太子殿下ではなく、弟に『強く希望したい』などというのは、宮内庁長官としてはありえない発言。雅子さまに最後通牒を突きつけるという意味合いだったのでしょう。これで雅子さまがご自分を完全否定された思いになり、さらに病状を悪化されたのは間違いありません」(前出・皇室ジャーナリスト)
 実際、雅子皇后が休養に入ってから2カ月がたった2月23日の誕生日会見で、徳仁天皇は雅子皇后の体調不良の理由について、こう語っていた。
「世継ぎ問題のプレッシャーがかかってきたこともまた大きかったと思います」
 その後、公務復帰の目処は立たず、同年3月になると、雅子皇后は軽井沢にある小和田家の別荘で転地療養生活に入った。宮内庁や皇室の施設を使わないという異例の決断だけでも、雅子皇后の宮内庁への不信感と症状の重さがうかがい知れたが、実際、週刊誌はこの時期に雅子皇后をめぐって、重大な事件が起きていたとの報道をしている。
「『週刊女性』が『軽井沢に転地療養直前にある深刻な事態があった』と報じたんですが、まさに転地療養直前、雅子さまが東宮御所で衝動的に手首を切ったという噂が流れていたんです。『週女』の記事は明らかにそのことを指していた」(前出・皇室ジャーナリスト)
 さらに、「週刊新潮」は雅子皇后がこの時期離婚の意志を口にしていたという話を報じた。
「ちょうど雅子妃が体調を崩され、精神が不安定な時期のことで、あることをめぐって雅子妃がお怒りになり、東宮職の幹部に直接電話で “私、皇太子妃を辞めます”と言って、一方的に電話を切ってしまうという出来事があった。これを伝え聞いた宮内庁は、“離婚”の問題を内々に検討するようになったのです」(「週刊新潮」2006年1月5・12日号より)
そして、こうした危機的な事態を受けて、2004年5月、徳仁天皇の「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」という、いわゆる“人格否定発言”が飛び出すのである。
 そして、同年7月には「適応障害」という心の病気を患っていたことが公表された。
 だが、それでも、宮内庁の雅子皇后への排斥姿勢は変わらなかった。メディアにはオフレコで「人格否定発言は皇太子さまに雅子さまが言わせた」などとリークし、「適応障害」という病名についても、雅子皇后は適切な治療のために公表を望んでいたが宮内庁は最後まで抵抗していたという。
 メディアも同様だった。精神的な病であることが公表されたにも関わらず、相変わらず「わがまま」「ストライキ」「怠け病」などという攻撃を繰り広げた。
 2005年12月の雅子皇后の誕生日に東宮職医師団が、「これまでに直面されてきたストレスは、医師団の想像以上に強いものであった」「医師団としては、続けてご公務をしていただけるまでにはまだ回復されていらっしゃらないと判断しております」と「見解」を発表すると、雅子妃バッシングはさらに過熱していく。
 こうしたメディアのバッシングを主導していたのが、右派勢力だった。日本会議系の集会では、男系主義の学者が雅子妃批判を語り大喝采を浴びたり、男系派の論客で安倍首相のブレーンとしても知られる八木秀次氏に至っては「AERA」で離婚説の発信源は「皇太子ご夫妻側ではないのか」「同情を誘い、これからの皇室改革を自分たちの都合よく進めようとしている」などとトンデモ陰謀説まで開陳する始末だった。
 
 当時、皇室典範を改正し、女性天皇を認めようという動きが出てきていたのだが、男系男子に固執する勢力が雅子皇后をターゲットにバッシングを展開し、それにメディアが引きずられていくという構図が出来上がっていたのである。
 その後、秋篠宮家の悠仁親王の誕生により皇室典範改正の話は先延ばしされたが、それでも愛子内親王の教育などを巡って、バッシングは続いた。
 それこそ、バッシングが消えたのは、即位が決まってからのことだ。
「皇族への批判は一時よりも自由になりましたが、天皇皇后への批判は今でもメディアは躊躇しますからね。しかも、上皇さまと美智子さまに嫌われている安倍首相が徳仁天皇陛下や雅子皇后に秋波を送り始めたことで、右派メディアも一斉にバッシングをやめてしまったというのもあるでしょう」(前出・皇室ジャーナリスト)
 しかし、バッシングが消えても、この間、雅子皇后が体験した理不尽な攻撃や圧力を生み出す構造は、宮内庁や皇室、メディアから消えたわけではない。
 それは皇族に嫁いだ女性に「産む機械」であることを強制し、男子を産まない女性に平気で攻撃を浴びせるという差別的な構造だ。
 子どもをもうけることも、不妊治療を選択することも、本来、個人に選択の自由がある。自分の子どもをもつことよりも、仕事でも遊びでも海外に行って見聞を広めたり交流を深めたりすることのほうに、価値を置く人だっているだろう。しかもわざわざ不妊治療をするより趣味など他の部分で人生を充実させたいという人は、当時よりはるかに不妊治療が一般化した現在でもいくらでもいる。ましてや「男子を産め」などという一般家庭は今やほとんどなくなりつつある。
 
 しかし、皇室制度は、「万世一系」などというフィクションのために、雅子皇后にその自由を許さなかった。
 こんな環境に置かれて、正常でいられる人間などいないだろう。雅子皇后が皇室に適応できなかったのでなく、皇室制度のほうが現代民主主義社会のなかで限界を露呈しているのだ。眞子内親王の結婚問題も同じだ。
 今後、愛子内親王、佳子内親王、悠仁親王の結婚をめぐっても、必ず同様の問題は起きるだろう。
 旧宮家の復活とか、女性天皇を認めるとか、女性宮家を創設するなどといった議論がなされているが、いずれの方策も、結局は先延ばしであり、本質から目を逸らすものでしかない。皇族の基本的人権の著しい抑圧、天皇制という非民主主義的制度の限界という本質的な議論を始めるべきだろう。



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結論から言えば

旧宮家の復活とか、女性天皇を認めるとか、女性宮家を創設するなどといった議論がなされているが、いずれの方策も、結局は先延ばしであり、本質から目を逸らすものでしかない。皇族の基本的人権の著しい抑圧、天皇制という非民主主義的制度の限界という本質的な議論を始めるべきだろう。

〆がこれなら、まぁ、日本共産党のお友達?

>旧宮家の復活とか、女性天皇を認めるとか、女性宮家を創設する

これは先延ばしというより、皇統を続けるためにということで議論されているので、「天皇制を非民主主義的制度の限界」と断言しているこの記事とは相容れないことになる。

左翼的とまでは言わないけれども、左巻きのいかんところは、美しい言葉を使いたがって、結局は、現実から離れて行き、やがて本質は何かと言うことまでミスリードしてしまう。

皇族には基本的人権が認められていない、非民主主義、それならやめてしまえ!
リテラの〆からは、こんな結論が臭ってくる。

いやいや、台所派としては、それはちょっと違うのだ。

令和の天皇皇后両陛下に、お二人が皇太子ご夫妻の時からその未来に大きな期待を寄せているのである。



雅子皇后はある意味「人身御供」として皇室に供され、結婚後も「産む機械」として扱われ、人間の尊厳を踏みにじるようなプレッシャーにさらされてきた。そして、一時は完全に心を病み、「自殺未遂」、さらに離婚の危機まで報じられていたのだ。
 
「美談」のかわりにおどろおどろしい私小説風ドラマですか。

リテラの記事がすんなり読者のふにおちないのはなぜか?
それは、皇室ジャーナリストの証言が元になっているからである。
週刊誌の皇室記事から結論にそって適当にソースを選ぶとこうなる。
「あたっているようないないような」

かつて佐藤あさ子という変質者まがいの雑誌記者が365日学習院前に張り込んで(自己申告)、不登校(AERAが仕掛けたウソ記事)はまだ続いている!と鼻息荒く雅子さまや敬宮さまを貶める単行本を出しやがったが、この本が参考文献として出していたほとんどが女性週刊誌の憶測記事だった。
敬宮さまを乗せたお車が、時々登校ルートを変えたり、別の門から中へ入られたり、それは週刊誌記者の鼻を明かしてやるという理由では無くて、実際にベンツが校門近くで奇妙な事故をおこしていたり、取材の記者が意味も無くたむろしていたり、観光バスに乗ったおばちゃんたちが
「ここや、ここや、愛ちゃんの学校!」などと指さして騒いだりするので、「警護」という観点から学習院も協力したのである。
佐藤あさ子が本当に見張っていたのか、ただのはったりなのか、「今日はまだ校門を通っていない、また休んだんだ、不登校は続いている!」とわめいていても、いつのまにか敬宮さまは学内にお入りになっておられるということはあった。
学習院にお子さまを通わせておられるお母さま方は、我が子から
「愛ちゃん、学校へ来ているよ」
と聞いている。
やれ出席日数が足りないはずだ、試験を受けていないはずだ、特別扱いだ!と週刊誌は悪意をもって書き立てたが、皇太子家(当時)のスタンスは変わらなかった。
その後も体調が悪くてお休みすることはあっても、宿題など提出物はきちんと提出し、受けられなかった試験は別室で追試を受けられた。
(追試を受けられたことまで発表されたので、秋篠宮がいかに忖度忖度の塊であるインチキ博士号をもらったかを実際に知っている私の娘なんか、学習院の公正さにびっくりしていた)
今では、「学習院がお預かりした皇族方の中でピカイチのご優秀さ」と言われるほどだし、誰もそうでしょそうでしょと信じて疑わないのは、子どもらしい図工作品やお習字や作文を発表され、年相応のその内容の伴い方まで知っているからである。

なぜわかるか?

知れたこと、国民はみなそうやって大きくなり、大人になったらそうやって我が子に教育をつけ、子はいなくとも、親戚だの近所などで、季節ごとにあるいは人生の節目で知ることになる。
頭のよいお子さんというだけでなく、「愛ちゃんはとっても真面目に努力する子」なのだということを。

皇室ジャーナリストは「おめーら知らないだろう、これが真相なんだぜ、秘話だぜぇ」と文章を書くが、皇室を報道するのに皇室だけを特殊扱いする。
特殊ではあるだろうが、もう片方の情報の受け手である側、つまり私たちだが、ジャーナリストたちは私たちがどのようなアンテナを持っているかころりと忘れている、あるいは一般人をバカにしているので気がつかないのかもしれぬ。

ミテコサマもキコもこちらははっきりと国民をバカにしているので、気がつかないと思っているらしいが、おっとどっこい、言わないだけで案外気がついているのだ。

えらくずれたが、話を雅子さまに戻そう。



>さらに有力視されているのが、1992年10月の天皇訪中を巡る“取り引き”説だ。この天皇の初めての中国訪問には、与党・自民党内でも大きく賛否が分かれていた。そのなかで、天皇訪中を積極的に進めていたのが外務省、そして宮内庁との折衝にあたっていたのが小和田事務次官だった。恆氏と外務省がこの天皇訪中を実現するために、いやがる雅子氏を説得した、という見方は今でも根強い。


皇室ジャーナリストは皇室しか見ていない。
皇室においてNO.1の権力者である天皇が、雅子さま入内の取引材料に使われた、それくらいすごいことだといいたいのか、小和田外務事務次官は天皇訪中の手柄と引き換えに娘を皇室に売り渡したとでも言うのか?

これがどれくらい滑稽な説であるか、それを有力視している連中がいかに当時の世界を見ずに勝手なことを言っているか見ていこう。

何と言っても、私たち国民は、週刊誌ばかり見ているわけではない。
私や私の周囲の女性すなわちおばちゃんであるが、むしろ新聞やテレビを毎日見ていて、週刊誌なんか美容院で読むと決めている人の方が多い。

天皇・皇后の訪中はよく覚えている。
ミテコサマが道行きを着て嬉しそうに万里の長城を歩いていた。
ニュースは世界に発信された、1992年10月のことである。
国際ニュースになってミテコサマは嬉しかったろうが、なぜそんなに騒がれたのか?

1989年、中国は流血の(六四)天安門事件を武力で制圧したとして国際社会から非難をあび、西側諸国から制裁を受けた。国内情勢はすぐにはおさまらず、外国企業は一斉に中国から引き揚げ、日本も6月20日対中円借款を中止したり経済援助を凍結を発表した。

7月の第15回先進国首脳会議(アルシュ・サミット)では、議長国フランスをはじめとした西側諸国があらためて残虐行為を厳しく非難した。

ところが日本は対中経済援助の凍結を発表しながら、宇野宗佑首相は「中国を孤立させない」と主張して早くも足並みを乱し、女と指3本で失脚したw宇野後の海部首相は、翌年7月の第16回先進国首脳会議で、対中円借款の再開に言及、翌月には現職大臣として中国へ飛んで行った。

中国は日本のお隣さんである。
西側諸国の中でも一番に影響を受ける、とはいえ西側諸国が制裁をかけている中、現職大臣が話し合いで訪中するのはともかく、天皇皇后が中国から招待を受けてホイホイと出かけて行ったのである。

ソビエトではゴルバチョフによるペレストロイカが進行、社会主義国の民主化が進む中、中国共産党が武器をもたぬ国民のデモを武力制圧したことに対して、西側諸国が外交制裁をかけていたところである。
天皇訪中は日本が中国共産党の一党独裁を認めた形になって、西側諸国のから非難される形になってしまったのである。

江沢民が訪米したのは1997年、アメリカ大統領ビルクリントンが訪中したのが翌1998年。


眞子内親王殿下に関する最近の週刊誌報道について
平成30年5月25日
宮内庁
眞子内親王殿下の納采の儀を始めとするご結婚関係儀式等の延期が発表されて以来,このことに関する両陛下,取り分け皇后さまのお考え,ご対応について様々な憶測がなされ,記事にされてきましたが,このことに関し,両陛下は当初より一貫して変わらぬ対応をしてこられました。
両陛下が第一に考えられたことは,これは眞子さまの内心に触れる事柄であり,何人といえども,恐らくはご両親殿下でさえ眞子さまのお考えを待つ以外おありでないということでした。そうした中,ご自分方として出来ることは,極力周囲の雑音から眞子さまを守り,静かな状況を保つ中で,眞子さまがご自分の考えを深められるよう助力なさるということでした。
そのため,これまで両陛下は共に首尾一貫このことに関し一切発言を慎まれてこられました。事実,宮内庁長官,次長を始めとする宮内庁幹部,側近である侍従長,女官長や侍従職の誰一人として,このことに関して両陛下のご感想を伺ったり,状況についてお尋ねを受けたことはありません。平素,両陛下のご相談に与あずかる参与,御用掛においても全く同様であります。
一部の週刊誌は,「侍従職関係者」,「宮内庁幹部」,「宮内庁関係者」等のコメントとして,皇后さまが様々な発言をなさっているかのように記していますが,先にも述べたとおり,両陛下は,当初より,細心の注意を払って固く沈黙を守り続けておられ,また,宮内庁職員はもとより,ご親族,ご友人,ご進講者等で,両陛下にこの問題について話題にするような人もこれまで皆無であったと伺っています。
かつて,皇居内のゴルフ場であった場所に両陛下の御所建設が計画された際,昭和天皇が愛された自然林を皇后さまが丸坊主にした等の報道がなされ,前後数ヶ月に及ぶ謂われない批判記事の連続により,皇后さまは何ヶ月も声を失われる事態に陥られました。因みに,新御所の建設場所は,当時の宮内庁長官の報告と進言を陛下がお受け入れになり,最終的に決定されたもので,皇后さまはこのご報告や決定の場に一度も同席しておられず,新御所の予定地についてお聞きになったことも,まして御覧になったこともありませんでした。
今また,皇后さまは,ご自分の名のもとに,両陛下としてあれ程までにお守りになろうとされた眞子さまや秋篠宮両殿下の周辺で,静かな熟考のために保たれるべき環境に思いも寄らない様々な雑音が立てられていることを驚き,悲しんでおられ,陛下もまたそのことに深くお心を痛めておられます。皇后さまは,これまでもご家族のどなたかが苦しい状況におありの時は必ず,それは家族全体の苦しみだからと言われ,心配しつつ見守ってこられました。
この度,早くより,眞子さまや秋篠宮両殿下,お相手の方に静かに考える環境を与えることを最重要と判断され,沈黙に徹してこられた両陛下のお考えが無にされたことは余りにも残念であり,宮内庁として,この問題に関するこれまでの両陛下のお考えとご対応をお伝えすることに致します。


http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h30-0525.html @rink


宮内庁はいったいどういう仕事をしているところかね?

こんな記事は先月までに出しとくもんだぜー。

週刊誌を毎週リアルにチェックしているこちとらにしてみれば、眞子丼のことなんてもうマスゴミからも忘れられているんだからさ。
だって、眞子丼がいくらゴコームとやらに出てきても、「マコサマ、お気の毒」って様子見えないし、小室親子は全然逃げ隠れしないしねw

なんか、今回の宮内庁の対応の仕方を見ていると、下火になってきたから、ぱっぱと煽いでもう一度話題にしてほしげなんですが…。

>かつて,皇居内のゴルフ場であった場所に両陛下の御所建設が計画された際,昭和天皇が愛された自然林を皇后さまが丸坊主にした等の報道がなされ,

>因みに,新御所の建設場所は,当時の宮内庁長官の報告と進言を陛下がお受け入れになり,最終的に決定されたもので,皇后さまはこのご報告や決定の場に一度も同席しておられず,新御所の予定地についてお聞きになったことも,まして御覧になったこともありませんでした。

そして、こんな30年近く前のことをまた書いてさ。
今の若者(その頃まだ生まれていなかった子や小さかった子たち)に、先に吹き込んでおこうって寸法かしら?

でもさ、この書き方って露骨な記憶の上書きがあるよね。

昭和天皇はたしかにゴルフがお好きだった。
「ゴルフ場だったところ」で、昭和は贅沢してたと刷り込みたいのがミエミエ。
当時は、ゴルフは上流階級のお遊びで、交流や情報交換の場だったから、たしなみの一つと言ってもよい。
しかし、昭和に入り、日本が国際連盟を脱退して世界の孤児になっていった頃には、もうゴルフはされなくなっていた。
日中戦争はさらに拡大し、アメリカとの対立も激しくなって、ゴルフどころではなかったという事情もある。
そして敗戦。昭和天皇は、以来二度とゴルフはせず、そこを武蔵野の自然林に返すことを望まれ、香淳さまとの散策を楽しまれたそうだ。
足の遅い香淳さまを気遣ってふりむかれつつ、木々のこずえを仰がれ、下草がつけている小さな花を愛で、自然に出来た道が二股に分かれたところへ来ると、
「良宮、どちらへ行こうか?」
「お上のお好きな方へ」
写真家吉岡専造氏(朝日新聞のカメラマンだったけど)のカメラは、お二人のかわされる短い言葉まで聞こえてくるようなショットをとらえている。

ミテコサマがしたかどうかはともかく、昭和天皇が愛した自然林が丸坊主になったのは事実である。
宮内庁長官が進言して、ヘーカが最終的に裁可されたことも事実である。
その決定の場にミテコサマは同席しなかったし、予定地についても聞いたことはないし、見たこともないと強弁するが、それは「ミテコサマの関与はいささかもない」ことにはならない。

今、国会でさんざやってるじゃないの、安倍ちゃんの奥さんの関与があったかなかったか。
もっとも、お嬢さま育ちで「欲」のない昭恵夫人と違って、ミテコサマの方がガツガツしておられるのはよく知られたことですのでねw
そして平成の30年間で、ミテコサマがなんのかんのとアキヒトと言う名の木偶を操縦していたことは、あまたに知れ渡っております。

なんせ今回も、1年ちょっとの仮住まいのために、8億もかけるという贅沢さですもん。

だから、わざわざ「皇室関連報道」として、吹上の自然林丸坊主事件を持ってくるなんぞ、宮内庁の仕事の出来なさ加減を露呈している以外の何者でもありまっせーん。

>一部の週刊誌は,「侍従職関係者」,「宮内庁幹部」,「宮内庁関係者」等のコメントとして,皇后さまが様々な発言をなさっているかのように記していますが,先にも述べたとおり,両陛下は,当初より,細心の注意を払って固く沈黙を守り続けておられ,また,宮内庁職員はもとより,ご親族,ご友人,ご進講者等で,両陛下にこの問題について話題にするような人もこれまで皆無であったと伺っています。

眞子丼については、特に具体的に言うなら「結婚に反対」ということですが、ゴジアイのミテコサマが心配しておられるという一点で一致しております。
初孫の心配をするおばーさま、で良いんではないですか?

一方、皇太子ご一家のこととなると、

>「侍従職関係者」,「宮内庁幹部」,「宮内庁関係者」等のコメント

で、もっとひどいものがなんぼでもありましたが(特に敬宮さまがお生まれになる少し前からの20年くらい)、こっちはいいんですね。
眞子丼の比ではない、むごいことも言われました。
記憶に新しいところでは「雅子には皇后は務まらない」「キコさんと二人で一人前」「キコをよろしくね」
これは否定しないんですね。

あ、もう今までに、ご自分たちでもずいぶんトゲのあるコメントしてましたもんね。

一番重大なのは

「摂政はイヤ」

摂政は憲法にもちゃーんと書かれてますけど、これ、憲法を否定し、具体的には皇太子たる徳仁親王を否定したわけですよね。

生前退位はさすがに憲法違反に問われかねないから、政府は言い出したらきかない(政府が言うことをきかないので、天皇自らビデオレターで国民を騙しました)アキヒトさんのためにえらい苦労をしました(この点では安倍ちゃんに同情していますので、モリカケくらいええやん、と思っています、特にモリそばの方は詐欺師がアホのアッキーをうまく使ったという部分が大きいと思うので)。

その上、ジョーコーゴーとかコーシデンカとか、典範にないからと言って、こちらは勝手に作り放題、そして予算大盛り。

眞子のことでは、ただただ心配しているだけで、一言も発言していません、って。
こんな小さなことまで「いい子ちゃん」でいようなんて、ミテコサマ、国民をなめてますぜ。
 


宮内庁のバカタレHPが、キコさんのカマ掘り問題をそらすべく、必死ですw

http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h28-1121.html @rink

親王妃の「妃」を「きさき」と呼称することについて
平成28年11月21日
先の崇仁親王殿下の薨去に際しての一部の報道において,崇仁親王妃百合子殿下を「きさきの百合子様」と呼称する部分がありましたが,この呼称は下記のとおり誤りでありますので,注意喚起するとともにその点をお伝えします。



皇室典範における妃
明治の皇室典範において,皇族の配偶者を妃と規定されました。すなわち,皇太子妃・皇太孫妃・親王妃・王妃がそれであります。これは,現行の皇室典範にも継承されておりますが,ここでの「妃」の呼び方は,いずれも「ひ」であり,「きさき」とは呼ばれておりません。
歌会始めにおける妃
現在,歌会始の儀においては,皇后陛下のことを「きさいのみや」とお呼びしています。しかし,皇太子妃は「ひつぎのみこのみめ」,親王妃は「○○のみこのみめ」とお呼びするように皇太子殿下を始め皇族の妃を「きさき」もしくは「きさい」と称することは行われておりません。
結論
宮内庁において,皇族の配偶者はいずれも「妃(ひ)」と呼んでおり,「きさき」とは呼んでおりません。
(注)
広辞苑においては,「きさき(后)」を「天皇の正妻。皇后。中宮。」,「ひ(妃)」を「皇族の妻の称。」とされています。

------------

>一部の報道において

その一部の報道に訂正記事出させなさいよ?
「たかひとのみこのみめ」と書くべきところ「きさきのゆりこさま」と書いてしまいましたが、間違いでしたって。

報道記事が全部が全部正しいなんて国民は思ってないわよ。
「きさき」と読むことくらい知ってるし、皇后のことを指すってのも知ってる。
あ、間違えてるな、って思っても、こっちで変換しておくこともある。

こんな細かいことを11月21日に発表するくらいなら、ふみひとのみこのみめのカマ掘り記事が錯綜してるから、正しい経緯と結論を発表しろ。

こちらは広辞苑のかわりに実際の調書と各係官たちの日報への記載を証拠として開示すること。

とにかく「ふみひと」は信用ならんからな。

「ぼくちんは記憶のいいほうで~」と宮内庁が証言としてHPにあげたが、1年もたって「あの時ふみひとのみこはその場にいませんでした」と付け加えたろ?

勘違いしていたことを謝るでなし、正しい証言をあげるでなし。

今度も「間違いはただされねばなりません」のミテコがうるさい、ということもあるかもしれないけど、ふみひとのみめのカマ掘りニュースをそらせと指示があったんじゃないの?

宮内庁HPの更新をしている会社はkwsmの息がかかっているというとかくの噂もあるけど、なんか「本当かも」と思わせるような更新だねw


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