屋根裏部屋でホコリをかぶっていた本を引っ張り出して来ました。ちょっと気になった部分だけを取り出して「個人の感想」を書いてます。
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テレビなどで昔の映画を放送するとき、不適切な表現が(台詞などに)あるが、撮影者の意図を壊さないようにそのまま放映しました、ご了承ください、なんてのがありますね。

私がこれから書くことに、不適切どころか放送禁止用語が使用されているかもしれませんが、実際に経験したこととして当時の雰囲気も含めて皆さまにお伝えするために「そのまま」書きますのでご了承下さい。

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私の友人に古代遺跡巡りが趣味のがいて(あ、もちろん国内だよ、古墳とか石舞台とかそんなの)何か会にも入っているらしく、てくてく歩き回っている。
リーダーには、専門家がいるそうで「先生、先生」と呼んでいる、どんな経歴なのかは知らんけど。

その先生が2年くらい前かな、女帝の話をして「8人いるけどみんな中継ぎだった、子は作らなかった、天皇は男系男子で古代からずっと続いている」と言ったのだそうだ。
彼女は私がこういうブログを書いていることは知らないけれども、話の端々に「愛子さま」が出てくるので(私は皇室素人連中にはよくわかるように「愛子さま」を使う)皇位継承アンケートで女帝容認が80%を超えてる、女系天皇も70%が女系を理解した上で賛成といろんなメディアが伝え始めた頃であるし、Oakleyも女帝に興味があるのだろうと思ったのだろう。

「へぇ、そうなの」と私が答えるのを彼女は想定していたのだろうが、私が生半可な聞きかじりながら、元明(43代)元正(44代)天皇の場合を話すと向こうが「へぇ、そうなの」と言った。
しかし、表情と口ぶりには明らかに「でも〝先生〟が話されたことだしねー」と

〝こんなこと〟で言い合いしても仕方が無い

と言う気持ちが表れていた。

wikiでは元明(43代)元正(44代)天皇の皇位継承を、女系に見えるけれども血統から言ったら元正天皇の親父さんは男系男子なんだから、男女双系天皇、女系天皇とは違う。
だから、これを先例として、旧皇族(旧宮家)の子孫と内親王が結婚したら良いんでない?あるいは皇族男子を増やすためにGHQにムリヤリw臣籍降下させられた旧宮家を復活させようぜという男系男子派もいる。

こらこら、それはご都合主義、ゴールポストを動かすってヤツじゃね?

万世一系、男系で繋がれてきたというのは、歴史学の通説では「証明できない」。
先述の古代史の研究者橋本氏は「万世一系の思想」でつぎはぎされた皇統と言っている。
最初の方の天皇はいたのかどうなのかもわからない、天武のように、天皇の子じゃないんじゃね?という疑問が出ている人もいるし、とにかく父系祖先が天皇であったかなかったか証明しようがないからね。
後から○○天皇の子だということにしよう、とか父親の身分を王から親王にあげたとか、ないとは言えないんじゃない?

そんな実証できないことを、今の時代に「天皇になれる」条件として第一に掲げていいのかしらん?

wikiにある、男系原理の由来

・記紀神話における「天壌無窮の神勅」に求める説。すなわち「男系継承は神代、初代神武天皇以前から定められていた掟であり、一貫して続いてきた伝統である」という認識。そのため男系でない「万世一系の皇統に属さない女系天皇は天皇といえず、皇祖皇宗(アマテラスや歴代天皇の霊)からも天皇として認められない」という神話的な理由ではないかと考えられる。
・娘に家の継承を認めないという中国を発祥として朝鮮経由で渡来した家父長的氏族制度の影響。
旧皇室典範がはじめて男系の継承原理を成文法とし、現在の皇室典範もこれを踏襲したが、戦前も戦後も政府としての公式解釈は存在していない。半官の逐条解説書『皇室典範義解』も、旧皇室典範第1条の男系継承規定について「皇家の成法」「不文の常典」であるとするのみである。







また、注釈であるが

 『古事記』、『日本書紀』にはさまざまな造作が加えられているとされるが、その問題の1つには天皇が男系で継承されてきたように記した点である。古代、氏族としての帰属は父系を原則としていたのは事実としても、生活習慣は基本的に母系制であり、家の継承が常に父系的に行われていたとは考えられないのではないだろうか、ということである(その後の時代も婿養子という制度は残されている)。 現在の日本においては、結婚した夫婦は民法上どちらかの姓を名乗り、その子もその姓を名乗ることとなっているが、現状でそのほとんどが男子(父)の姓を名乗っている。姓をもって家の継承と見なすならば国民においても男系継承が一般的であるといえるが、婿養子あるいは娘の子が跡を継ぐことも少ないながら存在し、かつての女系継承の残滓ともいえるものも見受けられる。

私は、国文科出身ではないし、高校の時の日本史の成績も低空飛行だったし、なのだが、小学生の時、講談社の少年少女世界文学全集50巻を買って貰ったのよ。
その中の日本編に落窪物語ってのがあってね、まぁ、日本版「シンデレラ」かしらね。
気の強い継母とその後妻に頭の上がらないダメな父親のために召し使い並に扱われている可哀想なお姫様が素敵な貴公子に救い出されて結婚する話。
その中で、落窪の姫さまの亡き母上が身分の高い方だったこと(皇女だった?)、(かなりの)家屋敷の地券を娘に相続していたこと、なんかが書かれていて、それがホーホーこんな昔にも女の権利ってのはあったのか、と感心したのね。
落窪姫を助け出してくれた右近の少将も身分が高いけれども、当時の貴族社会では母系の血筋も出世に大きく寄与するらしいこと、それが天皇家のお血筋となるとまた格別ってことをその日本版おとぎ話で学んだわけ。
だから、こんなに婆さんになってから、天皇は男系男子でずっと繋いできた、女性天皇は「中継ぎにすぎない」なんて男系男子派の主張にはすぐには納得出来ないわけ。
遠藤みどりは皇位継承を支えるシステムとして後宮とか皇后とかに興味があるとおっしゃっていて、まぁそれは好きにしていただいていいけれども、母親が天皇って言うのは、記紀にある神話の時代でも連綿と続く実社会の中ではもっと重みがあったのではないかと、そう思うのね。

しかし、学校では名簿はあいうえお順でも男の子が先で、女の子は委員長でも副が搗くことが多いとか、当然のごとく娘は早く嫁に行け、地方でもあり見合い結婚が多くて、やれ女三界に家なしとか、妻は夫より半歩控えて立つとか、そんなことも耳に入って来て、

男を立てるのが賢い妻とかさー、男の子を産むと「お手柄」とかさー

ド庶民の私は知らない間に「男子優先」の世界にどっぷりつかってたよ。

なぜだー?

300年続いた江戸幕府を倒したはいいが、明治政府は不平等条約改正の条件として民法典制定を求められた。
律令はすでに機能せず、江戸時代の武家社会における家督相続にならった制度が出来ていたが民法典のようなものは存在せず大急ぎでフランス民法を模倣した。
もっともフランスとは国情も民情も違い、家族法は日本の旧慣習に配慮して作る必要があると、日本人委員のみで起草された。

皇位継承のド庶民版、家督制度と戸主権についてみてみる。

戸主の地位の承継(家督相続)
戸主の地位は、戸主の財産権とともに家督相続という制度により承継される。相続の一形態であるが、前戸主から新戸主へ全ての財産権利が譲り渡される単独相続である点が現在の民法と大きく異なる。但し遺言等による意思表示がある場合において相続分の指定があり遺言が有効であると認められれば、法律上「当然」にそれは有効であった。

明治31年に交付された明治民法の「戸主は男子のみ」は、早くも実情に合わない部分が出てきた。

明治の中頃、亭主を亡くした後家さんが、家業をついで立派にやっている、税金も全国の戸主と同等に払っているのに、なぜ女戸主はみとめられないのかと裁判に訴えたが、なるほどもっともだ。特に男に代わらなくてもよいと認められた事例があるらしい。

家督相続は次の場合に行われる。
戸主が死亡したとき
戸主が隠居したとき
戸主自身が婚姻し別戸籍に去ったとき
女戸主が入夫婚姻を行い夫に戸主を譲るとき
入夫婚姻により戸主となった夫が離婚により戸籍を出るとき
戸主が日本国籍を失ったとき
家督相続人(新戸主)となる者は、旧戸主と同じ家に属する者(家族)の中から、第一順位として直系卑属のうち親等・男女・嫡出子庶子・長幼の順で決められた上位の者(ただし、親等が同じ場合女子といえども嫡出子及び庶子が優先された。)、被相続人(旧戸主)により指定された者、旧戸主の父母や親族会により選定された者などの順位で決めることになっていた。なお、代襲相続の規定もあり、例えば第一推定家督相続人である長男に孫が生存したまま長男が戸主の死亡前に亡くなっていた場合には、長男の孫のなかから男女・嫡出子庶子・長幼の順で家督相続がなされた。特に事情が無い場合、一般的には長男が家督相続人として戸主の地位を承継した。

女戸主
戸主は男性であることが原則であるが、女性であっても家督相続や庶子・私生児などによる一家創立など、女戸主もあり得た。しかし男戸主に比べ、いくつかの差異があった。
 
隠居するには、年齢その他の要件を満たしている必要があるが、女戸主の場合は年齢要件を満たす必要がない(改正前民法755条)
(男性の)戸主が婚姻して他家に入るには、女戸主の家に婚姻で入る場合と婿養子縁組(婚姻と妻の親との養子縁組を同時に行うこと)に限られたが、女戸主が婚姻するためであれば裁判所の許可を得て隠居・廃家ができた(改正前民法754条)
婚姻により夫が女戸主の家に入る(入夫婚姻)際、当事者の反対意思表示が無い限り入夫が戸主となった(改正前民法736条)。ただし1914年(大正3年)以降の戸籍法では、入夫婚姻の届書に入夫が戸主となる旨を記載しなければ、女戸主が継続する扱いであった。

つまり明治民法でも男であろうと女であろうと個人の意志が認められているのである。
おそらく家業を継いで生きてゆく封建社会が壊れ、職業選択の自由が取り入れられていくと、男だ女だと言ってられなくなるのだろう。
また自由平等のフランス民法の影響もあったかもしれないし、平安時代の通い婚や落窪の姫のように親が娘に財産を譲るという例もなくなったわけではなかったかもしれない。

人は生きるために働き、結婚し、子をなし、子孫繁栄を神に祈り、営々と生活を続けてきたのである。

男の王が続いたら争いが続き、国が乱れたので女王を置いた、すると争いはやみ国は平らかになった、と卑弥呼の伝説にある。

古代の天皇は統治者であった。

男系男子で繋いで来た、というよりは、天皇は統治者としての資質を一番に問われたであろう。
天変地異が続くのも天皇に徳がないせいだと「責任をとらされw」譲位して改元となった。
民の竃から煙が立たないのをご覧になって仁徳天皇は税を免除された、3年経って民の竃から煙が立つようになり、国は賑わいを取り戻し大いに潤った。
天皇は経済発展のために減税を行われたのだ。

もう一度言う、古代の天皇は統治者であった。
のんべんだらりと「男」で「繋いでいこう」と天皇は選ばれて来たのか?
天皇家は「とにかく繋がってればよい」だけだったのか?

87代のうち実に56代が譲位だった。
権謀術数はいつの世にもあっただろうが、それだけではないだろうと思う。
譲位せねばならぬ「不都合」があり、新天皇は「次はうまくやる」という希望(野望)もあったろう。

さて、これからが本題である。

前述の橋本義彦氏は言う。

皇位継承の資格
皇位継承者は,いうまでもなく皇親に限られる。推古天皇をはじめ皇后から皇位を継いだ例も数例あるが,皇曾孫の皇極,皇孫の元正以外の女帝はみな皇女である。継嗣令に〈女帝子〉の語が見えるから,令制では女帝の存在を公認しており,江戸中期の後桜町まで10代8女帝が生まれたが,いずれも中継ぎ的色彩が濃く,やはり皇男子の継承が本則であったとすべきであろう。平安・鎌倉時代には,いったん臣籍に降下したのち,さらに皇籍に復した例が数例あり,そのうち光孝の皇子定省(宇多)は皇位にのぼったが,やはり変則であろう。

男系男子派が舞い踊らんばかりに喜びそうな文章だが、皇男子の継承が本則であったというなら、女帝はなぜ選ばれた?
手白香皇女のご亭主継体天皇ははるばる福井から呼び寄せられている。
臣籍降下したのを皇籍に戻したり、もっと酷いのは世を捨てて仏の道に入ったのを還俗させてまで天皇にした例もある。
他に男の候補がいたのに女性が天皇になっている例もある。
男が本則なら女性天皇の場合にはただ継いでいけば済む場合よりもっと真剣な選択肢であったと思わざるを得ない。
それを橋本氏は「中継ぎ」と言い、男系男子派は狂喜乱舞するわけだ。

しかし!

女性天皇を選択した当時(あるいはせざるを得ない)、コトはもっと真剣勝負だったのではなかろうか?
それは今で言う「中継ぎ」のニュアンスとは違っていたんじゃないか?

そんなことを思う。

「中継ぎ」という言葉にはどこか軽い扱いというか侮蔑のようなものまで感じさせるものがある。

橋本義彦氏の文章でみると、女性天皇は「中継ぎ」で男性天皇は「変則」である。
古代、女帝子も令で公認されているし、男性が本則とはいえ、継体天皇のように皇女を皇后とすることでランクアップしてもらってようやく天皇にしてもらえた人もいる、というより皇后ではあるが皇女として後を継いだという側面の方が強いと言われている、手白香皇女のことだけどね、こういう場合も含めて当時は男と女の差というのはそれほどないのではないか?
長い歴史の中、男子の天皇でも実質「中継ぎ」という観念で見られていた影の薄い天皇だっていただろう。

では、「女性天皇は中継ぎ」というのはどこから来たか?

私は、橋本氏個人の生きた時代に知らず知らずのうちに形成された「女を軽く見る」無意識の下の意識ではないかと思う。

男の子を産めば「お手柄」で、跡継ぎを産んだ女自身も男子を持たない正妻を軽んじ、さらに上に行こうとする。

つづく
手白香さまが遠藤みどりの研究テーマを引用されているので、読んで来ました。

そこで私が気になったのは(実際にはへ?)、手白香さまが引用された後の部分ですね。

「現在は、天皇のキサキや後宮制度に関心をもっています。キサキや後宮というと、女同士の愛憎渦巻く世界というのが一般的なイメージでしょうが、天皇の世襲継承を支えた、天皇制の根幹を担うシステムであったのではないかと考えています。」

天皇の世襲継承を支えた?
天皇制の根幹を担うシステム?

キコが飛びつきそうなテーマではないかw
こりゃぁ、私の肝臓と一緒で「これからも継続的に〝要観察〟」ですなぁw

http://www.li.ocha.ac.jp/ug/hum/history/teacher/endo/endo.html

彼女の著作

『日本古代の女帝と譲位』 (塙書房、2015年)
「皇后制の成立と持統王権」 (『キリスト教文化研究所年報』第48号、2015年)
「天武皇子の年齢順について」 (『国史談話会雑誌』第56号、2015年)
「六~七世紀の王権構造」 (『歴史評論』第809号、2017年)
「采女・兵衛貢進制度の一考察―辺境の采女・兵衛を手がかりに―」 (熊谷公男編『古代東北の地域像と城柵』高志書院、2019年)
「日本古代後宮制度の再編過程」 (『日本史研究』第687号、2019年)

ゼミ概要
2020年4月1日更新
学部ゼミでは『令義解』を読んでいきます。『令義解』は平安時代に編纂された、養老令の政府公式の注釈書です。
「律令」というのは、古代日本の法律です。701年に制定された大宝律令が有名ですが、もともとは中国の隋・唐時代につくられたもので、当時の日本の実態に合うよう改変しながら導入されました。日本の古代国家の基礎となるもので、古代史研究を行ううえでも必須の史料です。
ゼミでは、履修者全員に担当箇所を割り当て、各担当者は割り当てられた範囲全体を読み下し、条文の内容を理解するために必要な語句や事項について調べたことを発表してもらいます。そのうえで、参加者全員で討論し、各条文の理解を深めたいと思っています。
法律というと少しとっつきにくい印象があるかもしれませんが、現代社会においても、わたしたちの日々の生活はさまざまな法律に則って行われています。もちろん実態とそぐわない面があることも事実ですが、法律が社会の大まかな枠組みをつくっているのは間違いありません。古代という1000年以上昔の社会について研究を始めるにあたって、律令という体系的な史料を読み込むことで、古代社会のあり方や、人々の考え方などの枠組みを理解することが、まず必要なのではないかと考えています。

へぇ、令義解ねぇ。
養老令の注釈書には令集解ってのもあるそうですが。

令集解
※『養老令』の注釈書。 30巻,のちに改編されて 50巻 (現存 35巻) 。平安時代前期の法律学者惟宗直本著。9世紀中頃の成立。まず令の条文を掲げ,次に清原夏野らが天皇の命を奉じて編んだ官撰の注釈書『令義解』の注を引き,その下に奈良時代から平安時代初期にかけての法律学者の説や政府文書,和漢の典籍を引用して解釈を施す。令条の趣旨と現実の事情が異なっている場合に言及している点もあり重要。引用文献のなかには,散逸した『大宝令』の注釈書もあるため,『大宝令』の復元にも役立つ。直本には『養老律』の注釈書『律集解』もあるが,ともに直本個人の学問的注釈であり,法的拘束力がない点,『令義解』とは異なる。

政府公式w上意下達の方ですね。

その他、彼女の経歴

2020年4月 - 現在お茶の水女子大学 助教 
2013年4月 - 現在宮城学院女子大学 キリスト教文化研究所 客員研究員 
2017年4月 - 2020年3月日本学術振興会 特別研究員RPD 
2015年9月 - 2019年10月福井工業高等専門学校 非常勤講師 
2018年4月 - 2019年3月東北学院大学 非常勤講師 
2013年4月 - 2016年9月日本学術振興会(受入研究機関:宮城学院女子大学) 特別研究員(PD) 
2011年8月 - 2013年3月東北大学大学院文学研究科 専門研究員 
2011年4月 - 2013年3月宮城県公文書館 公文書等専門調査員 

お茶女大・・日本学術振興会かぁ・・・

https://researchmap.jp/mdr

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では、学習院大学史学科古代史の先生の紹介文をみてみましょう。
私なら絶対こっちだな、おもしろそうなんだもの。

鐘江 宏之 教授
KANEGAE, Hiroyuki
日本古代史
専門の分野としては、日本古代史(飛鳥・奈良・平安時代)を研究しています。人々の生きた営みや地方社会のあり方に関心があり、さまざまな政治事件の展開の背景にある人々の生活やものの考え方の実際を研究することを通して、その事件や文化的な営みの持つ意味を深く理解していこうと考えています。
 歴史書や命令下達の法令、さらに貴族の日記などは、よく知られたできごとの展開がわかるという点で重要なのですが、もっと人々の日常がわかるような史料のほうに、どちらかというと関心を持っています。行政組織の末端で作られる登録台帳や会計報告のような古文書、さらには日常の呼び出し命令を伝える文書などを通して、そこからわかる役人と民衆の接点がおもしろくて、古代の人々の生きた世界をできるだけ知りたいと思いながら、研究を進めています。
 人々の日常を物語る史料として、出土文字資料(木簡・漆紙文書・墨書土器)の研究にも力を入れてきました。出土文字資料のおもしろいところは、2007年に刊行した『地下から出土した文字』にも書きましたが、歴史書や律令といった伝えられた書物ではわからない、人々の実態がなまなましく見えてくる点です。1点1点の史料は小さく断片的ですが、そうしたものを丹念に積み上げていって見えてくるのが、当時の大きなできごとの背景となっている社会の仕組みであったり、文化や人々の信仰の広がりであったりするのです。

いやぁ、今上陛下もゼミではよくフィールドワークに出られたことを書いておられましたが、学習院史学科って伝統的実証主義の匂ひがプンプンしますなー。
>行政組織の末端で作られる登録台帳や会計報告のような古文書、さらには日常の呼び出し命令を伝える文書などを通して、そこからわかる役人と民衆の接点がおもしろくて、

呼び出し命令だってw

文書の他、庶民の生活を彷彿とさせる木簡なんか出てきているんですよね。
正倉院で水につけられて保管されてるのを見ましたよ。

敬宮さま、どんなテーマを見つけられるのかな?(学習院大学へご入学されたことを改めてお喜び申し上げます)

わくわくしますね。

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皇室とは関係ないが、「米韓同盟消滅」の著者鈴置高史氏は

専門家とは利害関係者の別名である。国益よりも、自分や属する組織の利益を優先しがちだ。そのうえ情報をもっともコントロールできる人たちでもある。専門家は専門家だからこそ本当のことを言わないのだ。

とバッサリ切って捨てる。

南北朝鮮の国、あるいは朝鮮人に対する考えというより皮膚感覚みたいなものからシンシアリー氏の著作を知り、ブログも読むようになってから、何か日本にも似た集団がいるなと思い、皇位継承の一番のキモは男系男子だ!とツバを飛ばす「専門家」たち(いかにもな大学のセンセも含む)が南朝鮮人の思考に似ていることに気がついた。

彼らは初代神武天皇から皇位継承は男系男子を以て連綿と続いて来た、女性天皇はいずれも男性天皇へ渡すための中継ぎであり、自身の子どもを作らなかったと言う。それもいかにも専門家づらをして。

宮内庁に奉職していたというお方のブログに宮本某(実はゴキ妃の弟だという噂もあるw)というこれまた専門家づらした男が、新しい専門家を引っ張って来た。

敬宮さまを天皇にと望む声が大きいが、即位すれば生涯未婚を強いることになる、そんなの可哀想でしょ、だからやめてあげようね、と「情(韓国式に言うとジョンかえ?)」に訴える。
情だけでは弱いとみたか、新しい専門家、古代史のプロw遠藤みどりという研究者の著書から適当に引用している。

当時の貴族社会には父系帰属主義が浸透していたのである。これは皇位だけでなく、皇親や貴族の地位の継承が男系を通じて行われていたことからも窺えるだろう。
遠藤みどり『日本古代の女帝と譲位』(塙書房、2015年)

遠藤みどりサン、2020年4月現在、お茶の水女子大学助教さんですって。

ふ~ん。

しかし、父系帰属主義が浸透していたとか地位の継承が男系を通じて行われていたとか、結論だけ書いて、信じろというのはいささか乱暴ではないか?
学者とか研究者とか言うなら、たとえ1行でも論拠を上げるべきで、宮本某も大学のセンセの言説をわざわざ持って来るなら引用部分がずれている。

ウリはいつも正しい、根底にこの韓国人論理があって、この論理はオールマイティ、全世界で通じると思っているらしいが、このままでは通らないだろう。

東京大学文学部国史学科を卒業し、大学院に在籍するも翌年3月宮内庁書陵部勤務、編修課皇室制度調査室長、宮内庁編修調査官、宮内庁編修課長、正倉院事務所長と宮内庁畑を歩き、日本歴史学会理事や評議員を務めた橋本義彦氏は古代の皇位継承についてこのように語っている。

7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。また,記紀にみえる天皇の名称をみると,7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ,10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ,12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ),15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ,27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシという称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると,7~9代の名称は持統以下の名称を手本に,12~14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られたと推定される。これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10~12代の天皇は大和を根拠としていたが,15~25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。しかしこれも一つの解釈ないし仮説であって,古代の皇位継承にはなお多くの疑問が残っている。

皇嗣の冊定
大化以前の皇位継承については,天皇が任意に選定したとする中田薫の選定相続説,天皇が神意により卜定したとする滝川政次郎の卜定相続説,末子相続から兄弟相続への移行を説く白鳥清の兄弟継承説,あるいは大兄(おおえ)(同腹中の長子)からその兄弟,ついで大兄の子の順に継承反復したとする井上光貞の大兄相続説などがある。そして天智朝に至り,中国より継受した嫡長子相続主義にもとづく皇位継承法が定められたとも説かれている。しかし爾後の実例に徴すると,皇嗣の選定は,嫡系男子の優位を認めながらも,天皇(あるいは上皇)の勅定するところであり,明治の皇室典範制定以前は,立太子の詔において初めて皇嗣を冊定するのを本則とした。ただ立太子の儀はときに省略された例も少なくなく,ことに室町時代から江戸初期にかけて中絶したが,霊元天皇がこれを再興するに当たり,立太子に先立ち朝仁親王(東山天皇)を儲君(ちよくん)に治定したのが例となって,明治の嘉仁親王(大正天皇)の立太子に至るまで,儲君治定が実質的な皇嗣冊立を意味した。
 
皇位継承の資格
皇位継承者は,いうまでもなく皇親に限られる。推古天皇をはじめ皇后から皇位を継いだ例も数例あるが,皇曾孫の皇極,皇孫の元正以外の女帝はみな皇女である。継嗣令に〈女帝子〉の語が見えるから,令制では女帝の存在を公認しており,江戸中期の後桜町まで10代8女帝が生まれたが,いずれも中継ぎ的色彩が濃く,やはり皇男子の継承が本則であったとすべきであろう。平安・鎌倉時代には,いったん臣籍に降下したのち,さらに皇籍に復した例が数例あり,そのうち光孝の皇子定省(宇多)は皇位にのぼったが,やはり変則であろう。
 
皇位継承の原因
上古の皇位継承は,天皇が没することによって行われたが,645年(大化1)皇極が孝徳に皇位を譲って譲位の例を開いてからは,明治まで87代中(北朝天皇を除く)56代の天皇が譲位によって皇位を継いだ。天皇譲位の場合には,皇嗣が禅(ゆずり)を受けて直ちに践祚(せんそ)するのを常例としたが,天皇が没した場合には,没時と践祚との間に時日を要した例も多く,ことに上古においては数年月を経ることもあった。また鎌倉時代以後は,皇嗣の選定について朝廷と幕府の間の交渉に日時を要した場合も数例ある。なお斉明の皇太子中大兄(天智天皇),天武の皇后鸕野讃良(持統天皇)は,天皇没後,皇位につかずに数年にわたり執政したが,これを〈称制(しようせい)〉といった。81代安徳が平氏に擁されて西海に幸した後,京都において後鳥羽が践祚し,1年余にわたって2人の天皇が存立し,また96代後醍醐の譲位否認のもとで光厳が践祚し,爾後50余年にわたって南北両朝が併存対立した。また天皇がいったん譲位したのち,再び皇位についたことが2度あり,これを重祚(ちようそ)という。35代皇極が重祚して37代斉明となり,46代孝謙が重祚して48代称徳となったのがそれで,ともに女帝にして,特殊な政情によるものである。

特に男系男子派のむちゃくちゃな論理に対して言いたいことは

・6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足した

・古代の皇位継承にはなお多くの疑問が残っている。

・皇嗣の選定は,嫡系男子の優位を認めながらも,天皇(あるいは上皇)の勅定するところであり,明治の皇室典範制定以前は,立太子の詔において初めて皇嗣を冊定するのを本則

・継嗣令に〈女帝子〉の語が見えるから,令制では女帝の存在を公認


女帝を認めていて別に中継ぎ的色彩が濃いが、だからと言って未婚で無くてはならないと定められているわけで無く、また男性の場合も変則的な継承も見られるということである。
決まっていたわけでもなく、現在の皇位継承において大きく関わる理由にはなりえないということがこれでわかろうというものだ。




 

「腹立つわ~」とのコメント付きで、ななおさまから讀賣新聞の切り抜きが送られてきました。(お礼もいわずにすみません。いつも情報有難うございます)

「ご即位から1年」
今上陛下の記事から2日、鯰上げ上げを早速書く讀賣新聞。
アカヒほどあからさまではないけれど、「讀賣よ、おまえもか!」ってとこですよね。

讀賣にも、アキシノマンセー要員がちゃんといるんだね。

この社会部吉田敏行を調べてみたら、なんだ、鯰の外国旅行にくっついていくコバンザメ社員だったみたい。








特派員として国際報道に携わり、時には大きな緊張を強いられるよりは、アゴアシ付きで外国旅行させてもらえ、お決まりの提灯記事を書いていればOKの楽なお仕事なんだから、ある意味、やりがいよりはうま~な人生を選んだ人なんだろうな、という感想を持った。

そして小器用な文章をひっさげて、やがては「皇室じゃあなりすと」の肩書きのもと、テレビのコメンテーターとして適当なことを言い、時には文字の大きいすっかすかの皇室本を出したり、つぶしのきく道を歩んでいかれるのだろうか?

こういう人を世間では「お利口な人」という。

しかし、50を過ぎて住まいやら装束やらお手当など金銭的なことだけ「皇太子待遇」を要求するおっさんを「シャイ」の一言で擁護できるのか?
新聞記者の方もいいかげんお手軽コメントに慣らされ過ぎじゃない?

シャイと言えば、若き日の今上陛下だよね。

こんな記事があるよ。

 

さすがMI6の国、女王陛下のためにも将来の天皇陛下になられる方、また未来の皇室の構成員を調べることは当たり前のことでしょうね。
日本の御用新聞の提灯記事を参考にしてコトタレリ、とはつゆほども思っていない。

弟の方は女好き遊び好き、学業成績わろし、アホのアーヤと呼ばれていたことなんか、とっくに調べがついてると思うわ。 




皇太子さまが1989年にサッチャー首相(当時)に宛てて送った肉筆の手紙=英公文書館所蔵


これ、よく読んだら、追伸で、アーヤのかわりにお礼を書いておられるじゃないの。
ミテコサマ、「自分でお礼状を書きなさい」ってアーヤに教えなかったのか?
昔から女の尻を追っかける以外、何にもできない(やらない)男だったのね、アキシノ。

ほんと、陛下のご苦労がまだまだ続くかと思うと涙が出まする・・・。



 


昨日は、こんなの↑を上げていた菊の紋、今日はこれも削除したみたい?

慈愛に満ちたミテコサマ、気品に満ちたゴキサマ、

怖い

怖い

怖い

怖い
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